広島が原爆後に早い経済復興を達成した6つの要因

広島

コロナ第2波が進む中、全国的に猛暑になっており、仕事の環境は悪くなるばかりで、いい話がありませんね。

ところで今日は「原爆記念日」で、今年は75年の節目の年にあたります。

原爆による大きな被害の様子はいろいろなメディアで取り上げられていますので、多くの方がご存じだと思いますが、そこからの市街地復興や経済復興の様子について知っている方は少ないはずです。

そこで、今回は甚大な被害が起きた後の企業のBCPの参考になるよう、広島での原爆投下後の経済再建に関連する情報をお伝えします。

目次

1.広島の原爆による被害の概要

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分に広島市の地上約600mの場所で原子爆弾が爆発し、以下のような甚大な被害が発生しました。

(1)人的被害

原爆による死者数は同年12月末までに『約14万人』と推定されています。 当時の広島市には「約35万人」がいたとされていますので、広島市内にいた4割の方が亡くなったということになります。

爆心地に近い場所にいた方は即死、あるいは即日死を免れた方も障害が重い人ほど、その後の死亡率が高かったそうです。

爆心地から1km以内にいた人は、放射線による致命的な影響を受けました。多くが数日のうちに死亡しています。

無傷の人もその後発病し、多くの方が亡くなりました。

(2)建物被害

建物被害は全壊または全焼が51,787件(被ばく前の建物76,327件)ありました。

爆心地から半径2kmまでの地域は、爆風により木造家屋のほとんどが倒壊したそうです。

鉄筋コンクリート造の建物は崩壊しないまでも、窓がすべて吹き飛ばされ、内部はほとんど焼失するという被害を受けました。

その他、台所で使われていた火が原因の火災も起こりました。

2.広島が原爆後に早い経済復興を達成した6つの要因

上記のように広島は原爆投下により大きな被害を受けましたが、その後の取り組みにより、急速に経済再建を果たしました。

それには、以下のような6つの要因があったようです。

 

(1)大規模工場の被害が少なかった

当時から広島県の基幹産業は製造業でした。 しかし、原爆により大きな被害を受けたのは爆心地に近い住宅地に混在していた中小・零細工場でした。

それらの中小・零細工場は事業継続・事業再開ができず、中小・零細工場の数は激減しています。

しかし、爆心地から離れた大規模な工場は多数の犠牲者が出たにも関わらず、施設の被害は比較的軽微でした。

例えば、爆心地から約5.5km離れた三菱重工業の工場は、被爆の翌日から生産が再開されたとのことです。

このように、あれだけの被害を受けながらも、市内周辺部の主要工場は早い段階で生産再開ができたことが、広島の経済再建が早く進んだ一つの要因だったようです。

 

(2)工場の労働人口が大幅減少せず、流入が増加した

広島県は労働者の内、工場での職工の比率が全国平均よりも高い域でした。

実は原爆により14万人の方が亡くなったものの、工場労 働者は大幅に減少することがなかったようです。

(この理由は、次の(3)にも関係しているようですが、私が調べた範囲でははっきりしませんでした)。

外部からも労働者の流入があったようです。 (これが工場労働者数が減らなかった原因かもしれません。)

規模の大きな工場が生き残ったことに加えて、人的資源(工場労働者)が大きく減らなっかったことも経済再建を速める結果となりました。

 

(3)女性労働者が労働力を支えた

労働力の減少に歯止めをかけた要因の一つに、女性の職工も多数いたことが挙げられています。

多くの女性が工場で働いたことで、労働力が大幅に減ることがなく、生産能力の下支えとなりました。

 

(4)公共インフラの早期復旧

被爆後、道路は軍隊や警棒団によって主要幹線道路の啓開が進みました。

鉄道も鋭意復旧が進めれ、原爆投下3日後には被害の少なかった地域の電車の運行が再開されています。お金の無かった人には運賃を取らず運行したという話もあったそうです。

電車を早期復旧させるためには、現有勢力では作業が間に合わないことから、作業の多くが外注されました。

 

(5)軍事施設の民間転用

旧陸海軍の軍事施設の内、占領軍が使用しないものは、順次、民間への譲渡が進められました。

特に製造業では比較的円滑に転換が進められたため、製造業の再建が大きく進みました。

 

(6)戦争特需などの追い風

昭和25年6月には朝鮮戦争が勃発したことで、自動車や缶詰の生産が増え、特需がありました。

また、昭和27年4月に新造船が解禁になり、広島県内に集積していた造船業が活性化しました。

被爆後のこのような外部環境の変化が追い風になり、経済活動が活発化していったようです。

各種記録による情報から、広島の経済再建が早く進んだ原因には、以上のような要素があったようです。

また、広島市が昭和24年9月に発表した「産業復興五ケ年計画試案」には、昭和28年度の産業生産を昭和23年度の3.3倍にする目標を掲げ、ほぼ達成しています。

 

広島県が昭和27年12月に発表した「生産県構想」も、製造業を強くする一つとなったようです。

 

3.広島の原爆からの経済再建から学ぶポイント

上記でお伝えした要素を、今の企業や地域の危機対応への参考となる内容に変換してまとめてみました。

(1)事業継続のために必要な業務資源の維持

仮に大規模な工場も原爆により壊滅的な被害を受けていたとしたら同じようなスピードで経済再建は果たせなかったかもしれません。

これまでも言われてきたように、自社資源が被災した場合に備える代替資源や業務の代替体制の準備が大切だと言えます。

(2)労働力の確保

当時の製造業には、工場で作業を行う人手が不可欠ですから、工場の建物や設備に次いで、「労働者」が非常に重要な経営資源です。

広島では工場で働く労働力が大幅に減ってしまうということが避けられたことが幸いしました。

労働力となる人的資源を早く集める戦略は、重要な事業継続戦略の一つと再認識しました。

(3)小資本で既存資源の活用を進める

軍事施設の民間への譲渡が進みんだことを考えてみました。

事業実施に必要な設備や資源を省資本で短期に確保できたということですから、居抜き建物や休眠工場、賃貸オフィス等の既存資源を使うことに通じると考えました。

今ならインターネットを使った各種サービスを利用することで、小資本でかつスピード感をもって事業を興すことは可能になります。

(4)地域全体で盛り上げる

広島の製造業の活気が取り戻せたことは、製造業が集積していたこともひとつの要因だったと考えます。

これを考えると、それぞれの会社が小さな事業を単発で再開させるより、なるべく事業を集積させ、面として事業規模を大きくさせるという対応が有効と考えられます。

広島市も広島県も各種計画の中で製造業の復興に力を入れていました。

基幹産業はこのように行政も十分な支援を行うことになりますが、その他の業種についても地域の復興や産業振興の計画の中に自分たちの業種のこともしっかり組み込んでもらうような働きかけは必要と感じました。

このように、甚大な災害の場合は、個社で頑張ることには限界もあり、効果も限定的になる場合があるため、地域全体で盛り上げていく動きが必要と言えます。

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